(昭和28年-61年)33年間の歩み
「東京農業大学時代」
丹羽教授は昭和56年4月1日岩手大学を定年退官し、翌4月2日付で東京農業大学教授(嘱託教授)となり、総合研究所勤務となった。
当時の東京農業大学総合研究所は大学と並ぶ独立した大きな機関で(現在は大学の農学部所属となっている)、農業に関する国内の総合的な諸研究のほか、東南アジア各国の農業教育、農業研究の指導等広汎な内容を持ち、また東南アジア農業大学の教育、研究の拠点校として重要な任務を持つ研究所であった。
所長はその道の権威者として令名の高い杉 二郎博士(大学理事、東京大学名誉教授、東京農業大学名誉教授)で雄大な構想の下に着々として仕事が進められていた。
当時の内部機構として資源生物研究部、環境研究部、共通研究部等があり、丹羽教授は資源生物研究部に所属した。
資源生物研究部には動物系と植物系とがあり、丹羽教授は将来のバイテクをにらんだ動物系関係の研究室整備に努力した。
いっぽう学部(畜産学科)学生に対しては家畜人工授精論の講義を行うほか、非常勤講師時代(昭和28年以降)と同様夏季および冬期休暇中に家畜人工授精師(牛・豚)養成講習会を行った。(昭和28年以来農大教授定年退職(昭和61年3月)までに同大学で要請した家畜人工授精師数は1,300名に上り、各方面で活躍している)。
さらに昭和57年12月からは大学院指導教授として講義および論文指導を行い、また国の内外から提出される学位請求論文の審査に当たった。
(丹羽太左衛門の略歴と業績より)